狐の大木
大槻という名前の大木から光が出ていた。
ある日庄屋が木こりを頼んでその木を切ることにしたが、のこぎりで切っても次の日にはおがくずが元のようになっている。庄屋はおがくずを燃やすようにして対処した。するとその晩大槻の側を通るとひそひとと話声がする。狐の親子の引っ越しの計画で、とうとう狐は那須野が原へいってしまった。それからは狐川という地名になったが喜連川というようになった。
または、狐を九尾の狐とすることもある。
九尾の狐が大槻というところの大木に住んでおり、勝善のかみという人が、おがくずをかまどで焼きながら切り倒すことに成功。九尾の狐は那須野が原へ逃げた。その大木が倒れた時、肘を打ったので肘内、押し上げられたので押上村、その木が倒れて長い窪が出来たので長久保と名付けられた。その大木は夕方になると喜連川の漣光院に影が差したので陰さし漣光院という呼び方がある。その大木のおがくずを焼いたかまどは今も残っている。