影取ガ淵(栃木県足利市)
足利市に伝わる。
天正のころ、余戸(よべ)(今の栃木県足利市五十部(よべ)町)に、余戸小太郎という豪族が住んでいた。使われていた下女のひとりは、下男の子を生みました。小太郎の妻は、夫の子であろうと邪推して、下女をせめた。
ある日、下女が赤ん坊の悲鳴におどろいて部屋にとびこんでみると、わが子は、大きな鷹(たか)にさらわれていくところでした。下女は、鷹のあとをおいましたが、鷹は大きな松の枝にとまると、赤ん坊の血をすいはじめました。すいおわると、その枝へ赤ん坊のしかばねをひっかけたまま飛び去っていきました。
現在はその淵はないが、の東京新聞の「おそろし・謎めき北関東の怪談奇譚」の2013年8月3日「「川の中から人の手が」 影取ガ淵(栃木県足利市)」において調査報告がなされている。以下に引用する。
山菅の蛇橋
日光の伝説。
日光東照宮へ入るところへある観光名所の神橋(しんきょう)は、山菅の蛇橋ともいう。観光情報サイトのとちぎ旅ネット(日光橋|観光情報検索 | とちぎ旅ネット (tochigiji.or.jp))には「その昔、日光開山の祖「勝道上人」が大谷川の激流に阻まれ立ち往生し、神仏の加護にすがったところ、2匹の大蛇が現れ橋となった。しかし、鱗が滑り渡れずにいると蛇の背中に山菅が生えて道ができたとされ、神橋は別名「山菅の蛇橋」と言われている。」と日光の小学生は習います。」とある。同じ話は高橋勝利も『旅と伝説』に報告している。また、高橋勝利は芳賀郡で六月の何日だったかにアオバヤシといって、菅の箸で麺類を食う行事があるが、これは日光の山菅の蛇橋に関係があるのだと古老に聞いたことがあるという。さらに、朱塗りのこの箸の三本の桁は方言で乳の木という木でかけられているが、その一本は竜宮まで届いているという。「山崎太夫」や「橋掛長兵衛」という神人が古来より、この乳の木を替える役である。「日光山名跡誌」という本には橋の架け替えの際に人身御供を行ったとある。(高橋勝利「日光の土俗二つ三つ」「旅と伝説」(通巻35号)1930年 『完全復刻 旅と伝説』6 岩崎美術社 1975年 p1189)